三浦新七関連絵葉書について
三浦新七のドイツ留学
三浦新七は1877年(明治10)、現在の山形市旅籠町に三浦新兵衛の四男として生まれます。末っ子であったこと、学校での成績も優秀であったことから、商家を継がずに学問の道へと進みます。山形中学を経て東京高等商業学校では銀行科を専攻し、卒業後は母校で商業学の講師を嘱託されました。1905年(明治35)には、商業研究を目的として、3か年の予定でドイツ・イギリスへの留学を文部省から命じられました。
1903年(明治36)、新七はドイツに向けて日本を発ち、ライプチヒ大学に入学します。ここで出会ったのが、その後の三浦に多大な影響を与えることになる、歴史学者のカール・ランプレヒト(1856~1915)でした。ランプレヒトは経済史から出発して全体史としての文化史を目指した、当時の歴史学者においては異色の存在でした。
1905年(明治38)、ランプレヒトの勧めてミュンヘン大学に転学、心理学研究で名高いリップスに師事します。留学期間の3か年が過ぎ、文部省や学校当局から帰国を催促されますが、新七は私費で留学を継続しました。
1907年(明治40)、今度はベルリン大学に転校し、さまざまな教授の講義を受けますが、10月には再びライプチヒ大学に戻り、さらに2か年の計画でランプレヒトのもとで文化史研究に専念することを決意します。1910年(明治43)にはランプレヒトの演習助手をつとめるまでになります。1912年(明治45)に母の危篤の知らせを受けて日本への帰途につき、9年余りにも及ぶ留学に終止符を打ちました。
留学の目的は商業研究でしたが、この留学をきっかけに三浦新七は文明史に目覚め、その後の実業家・歴史家となる前提を構築したのでした。
三浦が留学をした理由
三浦が留学した目的は商業研究でしたが、それだけではありませんでした。当時、高等教育機関で教授となるためには、欧米への留学が必須であったという背景もあります。
当時、大学教授になる要件は厳密には定められていませんでしたが、おおよそ、博士号を持っていることが暗黙の条件となっていました。当初、博士号を得られる道は、大学院に籍を置くことで得られる「課程博士」と論文執筆による「論文博士」、文部大臣の推薦による「推薦博士」の3つがありましたが、「課程博士」「論文博士」で博士号を得る道は険しく、そのほとんどが「推薦博士」でした。「推薦博士」は、1898年に改正された学位令により、博士会の推薦による「博士会推薦」と、帝国大学総長の推薦による「総長推薦」が加えられました。
帝国大学の大学院による指導者養成システムが整備されるまで、その機能を果たしていたのは、明治初年以来行われていた留学でした。官立の専門学校・高等学校の教授職については、帰国後の教授ポストを約束して少なくとも2~3年間、欧米諸国の有名大学に入学して研鑽を積むことが必要とされ、帰国後に教授に任用されても博士号がない場合は、「博士会推薦」「総長推薦」で博士号を授与するということが明治期を通じて行われました。
三浦は留学中に1911年(明治44)に晴れて東京高等商業学校教授に任ぜられ、帰国後の1916年(大正5)に「博士会推薦」により法学博士の学位が授与されています。三浦も典型的な教授就任コースを経ていることがわかります。
留学先での交流
留学中のドイツでは、作曲家の島崎赤太郎(1874~1933)や、同郷の物理学者・日下部四郎太(1875~1924)、倫理学者・藤井健治郎(1872~1931)、教育学者・吉田熊次(1874~1964)、農学者・伊藤清蔵(1875~1941)のほか、のちに『広辞苑』の編者として知られる言語学の新村出(1876~1967)、天文学の新城新蔵(1873~1938)、西洋史学の村川堅固(1875~1946)、哲学の桑木厳翼(1874~1946)ら、新進気鋭の学者たちと交わりました。他にも、有名どころでは作曲家の土井晩翠(1871~1952)や陸軍軍人の奈良武次(1868~1962)との交流も見られます。
実家や山形中学以来の親友の奥山清治(1872~1931)・結城豊太郎(1877~1951)とも絵葉書を通じて交流しています。
時代を写す絵葉書
近代の郵便制度は、1840年、イギリスのローランド・ヒルが提唱した郵便法の改正であったとされます。これにより、切手と封筒が爆発的に広がりました。さらに、1865年、北ドイツ連邦郵便局の官吏であったハインリッヒ・フォン・ステファンが葉書形式の郵便の採用を提案し、1869年にはウィーンで制定された規則により、郵便葉書が世界で初めて認められました。ちなみに日本でも、ヨーロッパとそれほど時間差なく、1873年(明治6)に郵便制度が導入されています。
絵葉書がいつごろ登場したのかの定説はないようですが、官製の絵葉書が出る前から官製葉書に差出人が自ら絵を刷り込むなど、工夫を凝らすことが行われていたようです。北ドイツでは、1870年にA・シュバルツという印刷会社兼出版社が、官製葉書に絵を印刷した絵葉書を作成しました。ドイツ・オーストリア・スイスでは、1870年代に私製葉書の使用が認められ、1880年代には風景絵葉書が出回るようになりました。フランスでも1900年のパリ万博で爆発的な絵葉書ブームが巻き起こったといいます。日本でも1900年(明治33)に私製葉書の使用が認められ、1904年(明治37)の日露戦争を契機として絵葉書が爆発的に流行しました。絵葉書屋が商売になるほどでした。
三浦がドイツに留学した時代は、世界的に絵葉書が流行した時期と言っても過言ではありません。三浦のもとに集まった絵葉書は、三浦の留学中の動向を伝えるだけでなく、当時のヨーロッパの雰囲気をも伝えるものです。
参考文献
- 西村直次『コト聞書 三浦家の系譜』(三浦彌太郎、1977年)
- 花谷賢一『永遠の学徒 三浦新七博士とその時代』(山形商工会議所、2017年)
- 永原慶二『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、2003年)
- 天野郁夫『帝国大学 近代日本のエリート育成装置』(中央公論新社、2017年)
- 細馬宏通『絵はがきの時代 増補新版』(青土社、2020年)
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本アーカイブの作成は、佐藤琴(山形大学学士課程基盤教育機構准教授・山形大学附属博物館学芸研究員)と小幡圭祐(山形大学人文社会科学部准教授・山形大学附属博物館学芸研究員)が行い、中山七海(山形大学人文社会科学部4年生(2021年当時))、成澤咲良(山形大学人文社会科学部3年生(2021年当時)、イスケ ダンカン(山形大学非常勤講師)、内野広一(山形大学附属博物館アルバイト(2021年当時))が補助しました。
本アーカイブの作成にかかる経費は2021年度学長裁量経費と2021年度校友会支援事業等により支出しました。